Archive for August 13th, 2010

『中村のイヤギ』 / 張領太

張領太の処女作ドキュメンタリー『中村のイヤギ』。長い歴史に終止符を打つことになった中村地区へのエレジーであり、そこに生きてきた住民のいきいきとした姿への賛歌である。後の大阪(伊丹)空港の拡張工事に戦前多くの朝鮮人が集められたことを発端とする中村地区。目と鼻の先にある滑走路からの騒音も激しく、とても一等地には見えない。行政との交渉の末に決まった全住民の移転、そのニュースを作者が聞くところから話ははじまる。揺れる車の窓からとらえたビデオの映像。作者が始めてこの地区を訪れたときの映像だとナレーションが告げる。行政との移転交渉が何はともあれ成立したことを祝う在日のハルモニたちに、ビデオカメラは遠慮がちに近づく。観ている者まで初対面の人たちの生活に割り込むような緊張感を感じさせられる場面だ。しかしすべての場面が第一人称で語られているわけではない。淡々と映し出される無人の風景。いずれなくなる町並みは無機質で画一的なリズムで映し出されるとき、とたんにカメラは無作為、無差別に目の前を記録する装置として機能する。それらの風景には人々の生活が記録されているのだろうか。黙々と記録を続けるカメラに捕らえられた日常的な風景。わたしはその中に過去の記憶が見たい。しかしそれは記録映画では無理であろう。こうした記録映画の制限との葛藤を通して映画はダイナミズムを帯びてくる。 カメラを前に語る住民や元住民は、張の質問の裏をとっているように独創的な答えをぶつけてくる。行政から婉曲に持ち出された移転の話も誰一人として欺瞞や差別の枠組みで語ろうとはしない。それは映像を観る者の目を気にしてなのか。反対運動はあったのかと幾度か作者も聞いてみるが、わずかに残る在日一世のハルモニからも反対というはっきりした言葉は聞くことができない。在日コリアンと移転についての映像といえば土本典昭が尾道で撮影した『市民戦争』(1965 日本テレビ)がある。土本が撮ったのはしかし強制移転である。行政の強引で一方的な立ち退きは圧倒的な力で無力のスラム街住民の生活を破壊する。観るものも自然と土本同様スラム街の住民に共感するだろう。この尋常でない事態を前にカメラの役割は重大であり、被写体もカメラの前で無念を訴える。カメラと被写体は共犯関係にあり、映像を撮ることの重要性はすでに自明のものとされている。『中村のイヤギ』のテーマは強制移住ではない。住民はどうやら強制的な退去となることをどうにか避け、集落ごとの移転という形を受け入れたようである。自然とカメラの前に立つ人も「訴える」のではなく語りかける。映画全体としても土本の訴える映像とは根本的に異なる記憶する映像が現れる。60年間生きてきた家が壊されるのを前に一世のハルモニが披露するのは「恨」ではなくエレジーである。過ぎ去ったもの、戻ってこないものへの哀歌。だが、エレジーとは必ずしも内向的、個人的なものである必要はない。行政と交渉をする現実路線、その論理的思考を乱すような言葉にならない感情、画一的なショットが乱れるような出来事、あと一歩踏み込んで住人と関わることができれば家族写真的なまとまりを打破するエレジーになっていたのではないか。 第一作から積極的に多くの見知らぬ人と深く関わり、自分の立場を見失うことなく完成度の高い映画を完成させた張領太の今後の作品に期待したい。[ READ MORE ]

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